本「あの素晴らしい日々」加藤和彦の1993年インタビュー

この前、横浜のみなとみらいで映画「トノバン」を観たのですが、パンフレットと並び、この本が置かれていました。
パラパラとめくると過去のインタビューを本にまとめたもの。映画を見終わって興味が高まったこともあり、購入しました。
作詞家安井かずみさんの本(安井かずみがいた時代・島崎今日子)を以前読んだことがあり、安井さんの夫さんとしても興味がありました。

日本で色々と初めてのことをしたのが、加藤和彦さんです。その話は映画でも語られいましたが、裏話を本人が語っています。レジェンドになった方々の話が多く、とても興味深いです。

加藤和彦さんはなんとなくお坊ちゃま感があります。昭和22年生まれで物資の無い時代にリーバイスのGジャンとジーンズ、コンバースのバッシューを履いていたそうです。ご本人は語っていませんが、多分家が裕福だったと想像します。
ラジオで聴いたボブ・ディランのアルバムを輸入版で取り寄せたというエピソードが映画でもありました。日本では発売されていませんでした。
ボブ・ディランの影響でフォークに興味を持ち始め、大学時代に「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成します。

裏話その1
「帰って来たヨッパライ」はビートルズ「リボルバー」の影響を受けて作った曲

メンバーの北山修さんと変な事したいという事で作ったのが、「帰って来たヨッパライ」です。
1967年、「帰って来たヨッパライ」は口コミによって爆発的人気になり、メジャーレコードから発売され累計280万枚という大ヒットを記録しました。
本にはどうやってあの音楽を録音したかの裏話が語られています。

裏話その2
「悲しくてやりきれない」は「イムジン河」のコードを逆にしただけ

次は「イムジン河」を出しますが、北朝鮮と韓国の両方からクレームがきて発売中止になります。事務所から3時間で新曲をつくるように言われ、頭にきたのでイムジン河のコードを全部逆にしたそうです。
そのままの譜面を持ち、サトウハチロー宅に向かい歌詞を依頼し、出来たのが「悲しくてやりきれない」でした。この本では、もっと詳しいいきさつが書かれています。やけくそで作ったように聞こえますが、あんな美しい曲になるとは不思議です。

日本初その1
グループ解散後、ひとりでアメリカを廻ります。ヒッピー文化を取り入れ、日本人ヒッピー第1号となり帰国します。(本人がそう語っています)

そして、ゼロックスのCM「モーレツからビューティフルへ」のキャッチフレーズと共に、そのスタイルのまま出演し話題になります。

1970年に再びアメリカに行き、ソロ活動も開始します。
「ステージで客とコミュニケーションとか云々とか、そういうの一切考えたことない。いつも一方的に与えているだけ。今日はここまでパーッとやって、よく言えば「媚びない」悪く言えば「勝手」」と自分のステージを語っていますが、これは明らかに「我儘」でしょう。
地方のコンサートも必ずその日に帰りたいから、トリなのに順番入れ替えたり、途中で勝手に終わらせたりしていたそうです。そういうのが許されるキャラだったのかもしれません。小市民ソングを作ろうと言って、CMソングになった「家をたてるなら」を作っています。

日本初その2
日本で初めてPA会社を作る。

日本ではコンサート用の音響機器に良いのがなく、自分用に大金はたいて購入したらしいですが、当時はっぴいえんど大滝詠一さんに「ケチ」と言われ、その後は貸したそうです。

裏話その3
高橋幸宏さんとロンドンで偶然出会い、バンドメンバーになり、後々まで仲良しになる。

1971年に「サディステック・ミカ・バンド」を結成します。
ロンドンを旅行中にグラムロックに触れて、これを日本でもやりたいとグループを結成したと語っています。
ファッションも音楽の一部になっていることが気に入った理由だそうです。
その時、偶然ロンドンで遊んでいたロンドンブーツ履いた高橋幸宏さんとすれ違い、そこから仲良しになったそうです。

日本初その3
日本人で初めてロールスロイスを個人輸入した。

作家・放送作家の景山民夫さんとロンドンにロールスロイスを買いにいき、1ポンド800円の時代に1万ポンド800万円の中古のロールスロイスを買ったそうです。
景山さんは流ちょうなイギリス英語が出来たので、全て景山さんがしゃべって、車が東京に着いてからの手続きが大変だったけど、コネでなんとかしたと言っています。
さすが、お金持ちはコネを隠しません。

日本初その4
日本で初めてスタジオを一定期間ブロックした。

当時は1ヵ月かけて録音するとかいう習慣が無く、また調整もエンジニアが行い、アーティストが調整卓(ミキサー)を触るのは御法度だったらしいです。
会社側と戦いの日々だったと回想しています。
また、ゼロの状態でスタジオに入り、そこで作曲しアルバムを完成させさせたのも「俺たちが日本初じゃない?」と言っています。それは単に何も思い浮かばなかったからだそうです。

日本初その5
日本で初めてテープを切って貼った。

海外から音楽プロデューサーを招いて録音したとき、テープを切ってつなぎ合わせるのをみて大変驚いたそうです。
今ではいい所をつなぐのは普通のことですが、当時の日本ではそういう発想が無く、最初はまずカッターを探したらしいです。

同時期に活躍されたはっぴいえんどとミカ・バンドの違いを著者が考察しています。とても興味深いです。
「はっぴいえんどが主題にしていたのは、東京の戦後世代が抱く<喪失感>。その喪失感から音楽がクリエイトされていった。
それに対しミカ・バンドは、ドライでアナーキー。喪失感は世界的なものと捉えている。」と書かれています。

1970年代の音楽は歌謡曲しか知りませんので、今ひとつ分かりません。。。分かる人だけ分かってください。

海外公演が終わりバンドは解散します。安井かずみさんと出会いすぐ同棲、1年くらい仕事しません。なんでも2人で遊びまくっていたらしいです。
この頃の2人は、朝は加藤さん手作りのパンケーキを食べ、夜は有名店でディナー、着る服もハイブランドのものばかりという生活でした。
お金が無くなり仕事を再開します。まったくうらやましい生活です。私は少し貯金があっても将来が不安です。ふたりとも才能が有るから、仕事すればお金が入るって感覚なのですね。

アルバムを作るため渡米し、アメリカのアラバマの「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」で音楽活動を再開します。
ソロアルバムにボサノヴァやサンバを取り入れたり、ヨーロッパ3部作の連作が作られます。

裏話その4
ベルリンレコーディングの時、体調を崩した坂本龍一さんの代わりに矢野顕子さんが「うちの坂本がすみません」とやってきた。

今は大御所たちの若かりし頃のエピソード1つ1つが面白いです。坂本龍一さん以外のYMOのメンバーも参加しており、それぞれのエピソードも笑えます。
空港の幾何学模様を見て、細野晴臣さんは「あっ、構成主義」「クラフトワークみたいだ」と、ご機嫌で、高橋幸宏さんはベルリンの暗い雰囲気を感じて「早く帰りたいよ」と、対照的なベルリン観も面白いです。矢野さんは「どうもすみません」っていう感じで居たそうです。

世界各地で録音し、それを「高級合宿」と呼んでいたそうです。日本ではメンバーそれぞれがしがらみを抱えて生きていますが、海外だとそれが消えて普通に戻るのだそうです。
その普通が音楽にいい影響を及ぼすと、なぜ海外で録音するかの質問に答えています。

加藤和彦さんはプロデューサーとしても非常にクリエイティブでした。
「本当のなにかを持っている人のプロデュース、僕大好きなんだよね。」と語っています。
吉田拓郎さんの「結婚しようよ」、泉谷しげるさんの「春夏秋冬」は加藤和彦さんのプロデュースだとは知りませんでした。当時のアイドルの歌入れを「最悪」と評しています。

このインタビューの1年後、安井かずみさんは闘病生活になり、加藤和彦さんは一切仕事を止めて看病にあたります。

その後、加藤さんは結婚と再婚を繰り返し、2009年に鬱病を発症し自死します。生きていれば77歳です。まだまだ活躍出来る年齢で、早すぎる死が残念で仕方ありません。

私が面白いと思った裏話や日本初を、かいつまんで書きましたが、日本ロックの黎明期に興味がある方は是非とも購入して読んでみて下さい。

著:加藤和彦・前田祥丈 発行:株式会社百年舎  定価:3,000円+税

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