本 未来屋書店第1回生きる本大賞ノミネート作品『布団の中から蜂起せよ』       あなたには死なないでほしい

ようやくこの本を読み終えました。
序章を読むだけで数日かかってしまいました。

生きていることが苦しいか? この世を憎んでいるか?

この問いかけから、この本は始まります。ここでしばらく考えこみます。
「生きていることは苦しいけど、この世を憎んではいないなぁ。」

布団の上で動けないまま、<中略> 不安をやり過ごしているか? 

また、ここで考えこみます。
「布団の上で動けない時は過去にはあった。不安だらけの毎日だよ。」

地獄のような世の中という言葉から、一気に国家、家父長制、異性愛規範、資本主義へと飛び、さらには革命にまで飛躍するのです。

「布団という身の回りから革命とは?どうやって?」

ここから著者の自己紹介になります。
高島鈴さん、アナーカ・フェミニストで、あらゆる権力とあらゆる差別に反対する考えをもつ。
1995年生まれで、好景気を経験したことが無い。年々すべてが悪くなるようなムードで過ごしてきた。

8ページにわたり本気で革命を目指す意思表示をされています。
私は少し読む度に考え込んでしまい、この本、完読出来るのかと心配になりました。
その考えたことというのは、自分自身の過去の記憶です。過去がよみがえってしまい、なかなか前に進めなかったのです。

まず、アナーカ・フェミニズムとは、何のことでしょうか。

拒絶の言語
私的アナーカ・フェミニズム網領

私は私の言語によって権力を拒む
私は私の言語によって国家を拒む
私は私の言語によって家父長制度を拒む
私は私の言語によってあらゆる差別を拒む
私は私の言語によって資本主義を拒む
私は私の言語によって天皇制を拒む
私は私の言語によって植民地主義を拒む

私は私の言語によって新自由主義を拒む

”布団の中から蜂起せよ”から引用

初めてこの言葉を目にしました。
アナキストとフェミニストのことです。
アナキズム(アナーキズムとも)は本を読んだだけでは理解できずネットで検索してしまいました。
最初、「反体制的テロリスト男性の集団」とか「無政府主義」とあり、なんか本と違うなーと再度検索して出てきたものを要約したのが以下の文です。

一切の政治的権威と権力を否定し、合意を元に個人の自由が重視される社会を理想とする考え方

その支持者のことをアナキストと呼ぶそうです。

フェミニズムは女性の権利を認め、男女平等と多様性を目指す社会運動とあります。

その両輪が「アナーカー・フェミニスト」のようです。
著者は「金子文子」(大正時代のアナキスト)に出会い、生涯を知ったことでアナーカ・フェミニストを名乗るようになったそうです。

次に私的アナーカ・フェミニズムとは何?

何より失地回復であり、それは歴史的に女性が奪われていたものを返してもらうことを意味し、それには拒絶の言語が必要とされるということだと理解しました。

私はこの本に招待されたようです。

上に本から引用した文章を載せていますが、同意できるもの、出来ないものがあります。

私は天皇制を拒めません。子どもの時から浩宮様のファンであり天皇陛下のファンだからです。
学習院の水泳合宿で赤ふんどし姿を披露されたり、登山したり、音楽会でビオラを弾かれたり、よくテレビで拝見していました。
幼い時からメディアにさらされて、職業も選べずちょっと気の毒という気持ちもあります。

資本主義と新自由主義を拒んだら代わりのものが必要となると思いますが、それがなんだか分からないので、今のところ同意できません。

いくつか気付いたこと、考えたことがあったので、見出しごとに書きました。

私は自分のことを書かなくてはならない

これは、同意します。
私も昨年ブログを始めてから、自分が生きた証を残したいと思うようになりました。
思想的な主張はあまり無いけど、私も自分のことをもっと書きたいと思うのです。

蜂起せよ<姉妹>たち

シスターフッドについて。
男性支配の世の中に立ち向かうには女性同士連帯する必要があります。
でも、友人にそんな話ししたこと無いし、親の介護とか育児に忙しいみたいなので、心に秘めておくだけにしておきます。

ルッキズムを否定する

カメラが趣味の父と祖父がいたので、子ども時代の写真はたくさんありました。でも、中学1年生の春に突然、自分の見た目がコンプレックスになり、写真はほぼ無くなりました。
学校の集合写真でさえ、撮られることを拒否しました。コンプレックスの塊のような人間でした。
顔のパーツの位置だったり、体毛が濃いことや、貧乳や高身長、歯並びや足の形、全てがイヤでした。
世の中の「かわいい女の子」と大きくかけ離れていて、それが死ぬほど辛かったです。
「コンプレックスを肯定しよう」とか今でも無理です。

「ルッキズムは社会問題であり、コンプレックスという個人の問題にすり替えられ自分が自分で克服するべきというふうに、パーソナルな問題が矮小化されている」と書かれています。

若い時、すれ違いざまに「でけぇ」とか、アルバイト先で「俺の近くに来るな」とか、「背高いね。何センチ?」とか無神経に言われ心が傷つきました。
言ってくるのは完全に中年男性です。容姿をあれこれ言わないでほしい、高身長を簡単に「うらやましい」とか言わないでほしい、と思います。

世の中の美しさ可愛さに当てはまらない自分が苦しいのは、自分のせいでは無いのだと知りました。
この本では、「明確に勝者がいるように見せかけておいて、実のところルッキズムにおける真の勝者などどこにも存在しないのだ」と書いています。
「都市の中の広告媒体=資本主義に身を引き裂かれてはいけない」とも書いてあり、確かに美容整形の広告をついつい見てしまい、さらにはHPを何度も検索してしまいます。

美醜を気にしないで生きるというのも難しいと思いますが、私もルッキズムを否定します。

布団の中から蜂起せよ-新自由主義と通俗道徳

通俗道徳「頑張れば報われるという思想」からの自己責任論について

「頑張る」と「頑張らない」に優劣をつけるのは間違っているという考え方、驚きました。
今までそんなこと考えたことがなかったです。いまの自分がこうなったのは、頑張りが足らなかったせいだとずっと思っていました。

最近、中国で「寝そべり主義者宣言」という文書が出回っているそうです。

寝そべり族という呼び名もあります。
お金や出世に背をむけたアナーキーな人が書いたらしいです。なるべく消費せず最低限の生活をすることのようですが、共産党に捕まる危険性とかないのでしょうか。
寝そべり主義の90度(90度の意味、興味のある方は検索してみて下さい)に対して「45度族」というのもあるそうです
最近テレビのニュースで知ったのですが、何事もほどほどにする人達らしいです。

そんな考え方があるのかと知りました。なんでもかんでも自己責任は辛いですからね。

そういえば、夫は昔から「頑張りたくない」と言います。結婚当初から朝見送りをする時、ついでに「頑張ってね」とか言うと毎度「頑張らない!」と言い返されました。その言葉を言わないでほしいと言われました。
面倒くさいので今更聞きませんけど、通俗道徳を信用していなかったのかもしれないです。

それから、幸福についても、「あまりに世界はしあわせに価値の重さを置き過ぎている」と書いています。いったいどれほどの意味があるのかと。
この平和な日本でさえ、私は不幸だと言う人の多さよ! 私の母も過去のうらみつらみを言って、自分は不幸だと言います。
著者とは考えが違うかもしれませんが、私はこの世は修行だと思っています。別になにも宗教はしていませんが、不幸とか幸福とか考えず、死ぬまで修行は続くと思っています。

この本での「蜂起せよ」というのは「立ち上がれ」という意味では決してなく、布団の中で苦境にいる人の命。たった1つの命が存在が蜂起だとしています。

布団というのは葛藤の場という著者の言葉にものすごく納得します。私も布団という最小の自治区で、どう生きればいいのか日々迷い考えています。

秩序を穿つ-ナショナリズム/天皇制に抗する

著者は天皇制を否定していますが、2019年に大嘗宮一般公開に足を運んでいます。研究対象として見なければならないと向かったそうです。
おまわりさんはやさしく、中の警備も想像以上に甘く、大嘗宮の前は大盛況で人々はみな笑顔だったそうです。
何事もなく、誰も騒いだりプラカードもなく、「あんなに誰も何も言わないなんて想像していなかった」と書かれています。

本には『ここは家父長制の、国家権力の、戦争責任の、人間を支配する暴力の象徴であり<あと省略>』とも書かれており、今まで天皇制をそのような目でみたことがなかったので、単純に驚きました。
最初の3つは当てはまるかもしれません。直系の男系の男子って家父長制そのものです。それ以降は私は勉強が必要です。
週刊誌やメディアのネタにされて気の毒って思います。皇室に人権ってあるのでしょうか。無いのでしょうか。
そんなことしか考えていませんでしたから、正直な気持ち、戸惑っています。

儀礼、反誕生日主義

家族に祝ってもらう誕生日会が苦手と書いてあります。家族が仲良しというのは実情と合致しないからだそう。
経験が無いのでわかりませんが、元旦に家族全員でお正月料理を食べる空気感っていう感じでしょうか。
これは少し分かりません。
ふと、不思議な国のアリスの「誕生日でない日おめでとう」を思い出しました。

儀礼が苦手というのは分かります。
入学式、卒業式、成人式、私も全てイヤでした。体育館に集められて予行練習するのが、本当にイヤでした。
成人式は振り袖も拒否していたのに、いつの間に母が全て用意してくれていて、当日の朝に初めて用意してくれた着物を見て、母に申し訳ないという気持ちだけで振り袖着て成人式に参加しました。


最近のお葬式はシンプルにやるのが主流のようなので、あとは家族の葬式くらいでしょうかね。

誕生日会とか儀礼とか、さすがに大人になったら機会は減るでしょう。儀式って準備するのも後片付けも面倒だし、皆も本当はやりたくないんじゃないでしょうか。
ただ止めることが出来ないから渋々やっているような気がします。

第5章 動けない夜のために-メンタルヘルスと優生学

この5章は心が不調な人に寄り添い、共感できる人も多いはず。「いいんだよ、いいんだよ。」が心にしみます。

この本は読者を煽っています。高島鈴さんも最後のページで「読者を煽るように書いている」と書いています。それがイヤという意味ではありません。

たくさんのエピソードがそれぞれ面白いです。
電車の車両の床で寝そべる人に対して、「電車という空間の利用法が「共有されたルール」に毒されていない」、「ルールに従う行為は、免責を意味する」と、なるほどそういう事かと納得しました。

何度も「死なないで」と呼びかけられます。

「生存は抵抗だ」かっこいい言葉です。

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